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美食小説という快楽

窓の網戸にとまった蝉。そのまま静かにしててくれよな。

酷暑の谷間、風が涼しい、過ごしやすい日となった。7月22日の土用丑の日にはまだ数日あるが、わが家の食卓には一足早い、あの香ばしい褐色に輝く季節の風物詩。食欲がとても刺激される。鰻の暴騰が始まった今年であれば、ありがたさもひとしお。この20年ぐらいは美食という言葉がフィットしなくなっていたが、今年からは贅沢品のお仲間に復帰。夏の貴重な栄養源、ウナギさまさま。

そんな今日は、学校ならば夏休みの初日。そしてここ、湘南は茅ヶ崎。海岸通り、そういう名前の、海から1kmも離れた東西に延びる道。茅ヶ崎駅南口から、サザン通りでちょっと西へ、そんなロケーション。

昼を過ぎ、気温が高くなってきて、そろそろこの蝉くんも、ミンミンと全力で鳴き始めるのだろうか。それは勘弁してくれ。網戸の端っこを指でパチンとはじいて、移動願わなくてはならん。

夏の美食。高田郁「残月」にもそれは出てくる。今ほど運輸網が発達していない江戸時代のこと、食材は上方と江戸では大きく異なり、必然的に食習慣も調理法も違ったものであって、それがこの「みをつくし料理帖」シリーズを織りなす糸となっている。そういう地域性が実際のところ、当時の料理に多様性を与え、豊かな食文化を継続的に蓄積し洗練する原動力となってきたことは間違いあるまい。

地産地消。わざわざ食のためだけに旅行する価値があるという、ミシュラン三つ星の基準。巴里の10を超える14の三つ星店を有する東京。江戸時代からそういう素地、多様性を嬉々として吸収・同化・改良するメンタリティがあって、今があると考える。料理に人生をかける作り手の志、そして、店を正当に評価し育てる顧客層、その量と質。食文化を高める車の両輪となってきたはずだ。

いやあ、美食小説は面白い。

ここで一つ興味があるのが、高田郁さんが現代モノで美食小説を書いたら、どうなるか。

時代小説を書いてもすごいし、現代モノも飛びっきり面白い。そんな、宮部みゆきさんみたいな作家さんは、あまりいない。例えば、しゃばけシリーズの畠中恵さん。現代モノ、政治家事務所の事務員のお仕事を描いた「アコギなのかリッパなのか」は、読まなくちゃいけないってほどじゃない。

逆に、「サクリファイス」シリーズの近藤史恵さんの「猿若町捕物帳」シリーズ。ネットで調べると概して評判はよいので、私だけの印象かもしれないのだが、最新作の「土蛍」は、ちょっとスプラッターに過ぎるか。そこで描かれた狂気に、リアリティはあるのかと、違和感を感じるようでは、あまり楽しい読書とはなりにくい。

話は美食から脱線してしてしまった。窓の蝉も、一声だけ鳴いて、飛んで行ってしまった。猫型飛行船は、復帰最初の運航で墜落しかかって、はて、ちゃんと長く飛んでくれるのか、大磯のほうの上空は、暗雲立ち込めて、先行きが危ぶまれる、そんな船出となってしまった。