我フトクラテス敢えてマイノリティたらんとす

太った豚ではなく、痩せたソクラテスになれ、そう先生は仰せになられた。

太りやすい体質の私は、まあ、別に体格のことを言わんとされたわけでもないからと、特に僻むことも無く、自らが知識と思考力をもって世に貢献しようとするものは、私利私欲に走らず、社会に貢献せよと、そう読み替えて、はなむけの言葉として有難く頂戴することにした。

私利私欲が無いということと、付和雷同すること、全然関係無い、これは言うまでもない。が、かつて国政で影響力をもった方々が、大陸のほうに呼ばれ、国益を損なう発言を繰り返す様を聞くにつけ、政治家というのは同じ場所に留まっていると生き残りにくいんだろうなあと、思いをはせてしまう。君子豹変す、これは動きが激しい時代には不可欠だ。だけど、目の前にいる人たちが喜ぶであろうことを発言してしまう、あるいは、誰か力のある人の言うなりに生きそして発言してきた、その業というか、政治家としての生き残り戦略。悲しいことです。数年前まで見事に機能したロジックが、今、ひどく日本を傷つけている。

迎合、そういう表現を使わせてもらう。定見があって、それを目の前にいる人々に説得し、すり合わせ、うまく落とし所を見つける、それが理想形ではなかったか。ところが、である。こう言えば、喜んでくれるだろう、そういうプレゼンの秘訣は、確かに、ある。だけどそれは、国益に責任をもつ、真のリーダーが、外交の場面でやっていい仕業ではない。せいぜい、選挙のときだけ、有権者をその気にさせる必要があるとき。だけど、選挙のときの安請け合いを信じるほど、有権者はバカじゃない。真に信頼できるリーダーは、一貫して信念をふりかざすために、時に有権者の支持を失なって、議席を失うこともある。だけど、長い目で見れば、迎合しまくり、変節を繰り返す政治家が、長く尊敬を集めることなんて無い。有権者をなめてもらっては困る。

我、フトクラテス、野に生きる。それも嫌いではないので。