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海猫ビルヂングを探せ

観光地を舞台に探偵が活躍する、ひとつの様式。内田康夫の浅見光彦シリーズがその典型的な例であって、その舞台をめぐる旅もまた心躍るものとなる。最新作の「北の街物語」のあとがきでは、浅見光彦シリーズとしてのデビュー作、その舞台となった地の書店を内田康夫氏が期待と不安をもって訪れた日のことが紹介されている。

地域性。それが作品に魅力を加える常套手段の一つとなってきたことは間違いない。ただ、そこに平塚市という観光地とはいささか異なるカラーをもつ土地柄の地を選んだ勇気を称えたい。おそらく蛮勇ということにはならず、慧眼、ということに結果的にはなると思う。人気ミステリー作家、東川篤哉の最新作「ライオンの棲む街 ~平塚おんな探偵の事件簿 1~」は、都まんじゅう、梅屋、老郷、といった、平塚市に縁のある人にはわかるソウルフードなどディープでエスノなアイコンが至るところに登場する。知っている人にはたまらない楽しさ。無条件でお勧めします。ただ、東川篤哉氏ご本人が平塚に縁があるわけではなく、編集者が平塚市出身であるから、との説明が湘南ジャーナルのインタビュー記事に紹介されているように、雰囲気は伝わってくるけど、そこに愛憎ごったまぜの感情が滲むわけではない。湘南に関する微妙なセンチメントも、他人事のようにあっさりと、西湘じゃんと喝破しちまうし。妙なこだわりの無さが、しかし本作ではプラスに、カラッと軽快な作風に繋がっていると感じた。平塚アイテムをごっそり「まほろ駅前」の町田市に置き換えても、作品としてやはり成立してしまうだろうね。日帰り観光案内にライトなミステリーをのっけた、そういうイージーな成り立ちを嫌う方もなかにはおられよう。しかしそこはさすがに海千山千の人気作家の味付けがあって、これまでの東川篤哉作品がお好きな向きには、既存作品に負けず劣らずお楽しみになれることでしょう。

さきほどのインタビュー記事で作者本人が指摘しているように、この作品は映像化に適した作だと思う。というより、映像化を強く意識してキャラクター群を生み出していったのではないかと推察する。作品の冒頭、主人公らの探偵事務所が入居する、海猫ビルヂング。競輪場にほど近く、札場町にあるという、一階がラーメン屋さん。パッと思いついたのが、国道129号線に面する店。平塚駅から南東に延びる太い道路と国道129号が鋭角に交差する、その交差点に突きだすように立つ三階建のビル。住所は平塚市幸町23-24だけど、札場町に面している、あのラーメン屋があるビル。ここはラーメン店の開店と撤退が何度も繰り返されてきた。まだ新しいし、正確にここが海猫ビルヂングというわけでもないが、悪くない近似解でしょう。ここの三階を生野エルザ探偵事務所だと思って、以降読み進めることにした。勝手ながら。

JR平塚駅を山側に出て駅前ロータリーから北上する道が、さくら通りである。本作にも登場する。平塚警察署からの帰り道、という設定になっている。その平塚警察署は、さくら通りを駅から歩いて15分程のところにあるが、そこに至る間に、市役所があり、消防署があり、博物館があり、総合図書館があり、平塚警察署の隣にはパスポートでお世話になる県の合同庁舎がある。市の機能が集約された拠点の一つとなっている。作品中に登場する、閉店したスーパー、これは、市役所の東側にあった、ダイエーのことだろう。郷愁がそそられるものですな。七夕祭りのことはきっちりと描かれていても、そこに滝口カバンとか鰻の川万が話の途中に出て来るわけでもない。湘南スターモールのことは何度も引き合いに出してるのだから、そこで行われる湘南よさこいも触れて欲しいよなあと思うのだが、あるいはネタ元となっている編集者さんがもう平塚に住んでおられないということか、はたまた、いずれ出版されるであろう第2巻のネタとして温存されているのか。ま、余計なお世話ですがね。

では、探偵たちの行路上にもある平塚総合図書館まで散歩がてら行って、この本を借りて読みましょう、そういう楽しみは来年までとっときましょうね。何しろ、平塚図書館では予約が今現在143件で堂々のベスト10入り。相撲川と呼ばれた相模川を挟んで東に隣接する茅ヶ崎市図書館では25人、西の大磯町図書館では30人待ち。ちなみに、茅ヶ崎よりさらに東の藤沢市図書館ではまだ所蔵無しって、あれれ、妙な空気を感じなくもないですよ。

宮部みゆき斜め斬りを許さず

年間千冊読むための、見切り千両。隠居してから読めばいい本は、読み始めて一刻も早くそう判断して放り出し、斜め読みモードに移行する。これがコツ。捨てる決断力に価値宿る。悲しむべきは、いまどきのビジネス書は8割方そうなってしまうこと。それは、粗製乱造とまでは言わずとも、数打ちゃ当たると思っているらしい出版業界の事情を素直に反映したものだと手前は思っている。

ただ、ビジネス書の世界においても、今、物語性の価値が再発見されている。インテルではSFによってイノベーションを構想するという、そんなような本を今日読んだ。発見は、物語のあるところで起こる。となれば、より多くの皆様の想起する物語を事例として取り込むこと、結構ポイント高いんじゃない、という発想に至る。イノベーションは一日にしてならず、物語るべきネタに恵まれたイノベーションは、凡百の改良とは比較にならないほどの価値を社会にもたらす。

だから、技術的なイノベーションは、その利用シーンを物語として語るべき。物語として面白ければ、成功する可能性も高かろう。物語として退屈極まりない新製品が、市場を席巻するなんてことは、この時代には起こり得ないのではないか。

つまり、新製品はまず、利用されるシーンでの物語をもって判断すべきと。

でも、どうなんだろう、日本の語り部の皆様、小説家の先生方の、物語を紡ぐ力は、今、どうなっているのだろう。個人的には、決して斜めに読もうという気にもならない村上春樹氏をはじめ、国内なら宮部みゆき氏、国外ではダン・ブラウン氏、などなど。斜めに読めないy。斜めに読まない、というのではなくて、面白しく速読する必要を感じない。だから、読むのみやたらと時間がかかる。今回読んだ宮部みゆき「泣き童子」は、わずか四百頁ちょっとだから、せいぜい数時間かと思ったら、まるまる一日かかってしまった。慎重に読んだ結果である。

今回は特に「まぐる」の話が面白かった。マグルといえばハリー・ポッターのシリーズでは人間のこと。そして宮部さんの世界では、ある種の怪獣だ。その怪獣退治、怪獣攻撃隊MATが出てきて苦戦したあげく、郷秀樹が変身して「帰ってきたウルトラマン」が戦ってもいいような、そんな状況で、過去からの人間の英知が、怪獣と倒す。いや、ここでは妖怪と呼ぶべきか。帰ってきたウルトラマンというより、ゲゲゲの鬼太郎を引き合いに出すべきかもしれないが、寸法が、ウルトラマンのサイズ。

宮部みゆきさ妖怪退治の話といえば、博打眼、これも面白かった。突破口は、民間伝承であった。あんな小さな毒のない可愛い置物が、よってたかって悪意と呪いの塊を解毒する。理性に照らせば到底リアルとは呼べないような光景が、しかし圧倒的なリアリティをもって迫ってくるのは、心のどこかに共感する原始のミラーニューロンが誰にでも備わっているのか、そんなような感動がある。今回の、巫女ではないけど、巫女のような女性性の伝承。なにかこれも感動的だ。父性は敵を力によって征伐することを志向するのだが、母性は敵の感受性に訴えることで自滅へといざなう。ある意味、柔をもって剛を制す、その最高の実現形になっているのだ。

宮部みゆき作は、概して長い。長いけど、斜めに読む気が全然おきない。慎重に読んで行くこと、それが快楽になっていて、快楽は読んだ時間に比例する、かのようになっている。だったら、時間をかけて読むしかないじゃないか。

美食小説という快楽

窓の網戸にとまった蝉。そのまま静かにしててくれよな。

酷暑の谷間、風が涼しい、過ごしやすい日となった。7月22日の土用丑の日にはまだ数日あるが、わが家の食卓には一足早い、あの香ばしい褐色に輝く季節の風物詩。食欲がとても刺激される。鰻の暴騰が始まった今年であれば、ありがたさもひとしお。この20年ぐらいは美食という言葉がフィットしなくなっていたが、今年からは贅沢品のお仲間に復帰。夏の貴重な栄養源、ウナギさまさま。

そんな今日は、学校ならば夏休みの初日。そしてここ、湘南は茅ヶ崎。海岸通り、そういう名前の、海から1kmも離れた東西に延びる道。茅ヶ崎駅南口から、サザン通りでちょっと西へ、そんなロケーション。

昼を過ぎ、気温が高くなってきて、そろそろこの蝉くんも、ミンミンと全力で鳴き始めるのだろうか。それは勘弁してくれ。網戸の端っこを指でパチンとはじいて、移動願わなくてはならん。

夏の美食。高田郁「残月」にもそれは出てくる。今ほど運輸網が発達していない江戸時代のこと、食材は上方と江戸では大きく異なり、必然的に食習慣も調理法も違ったものであって、それがこの「みをつくし料理帖」シリーズを織りなす糸となっている。そういう地域性が実際のところ、当時の料理に多様性を与え、豊かな食文化を継続的に蓄積し洗練する原動力となってきたことは間違いあるまい。

地産地消。わざわざ食のためだけに旅行する価値があるという、ミシュラン三つ星の基準。巴里の10を超える14の三つ星店を有する東京。江戸時代からそういう素地、多様性を嬉々として吸収・同化・改良するメンタリティがあって、今があると考える。料理に人生をかける作り手の志、そして、店を正当に評価し育てる顧客層、その量と質。食文化を高める車の両輪となってきたはずだ。

いやあ、美食小説は面白い。

ここで一つ興味があるのが、高田郁さんが現代モノで美食小説を書いたら、どうなるか。

時代小説を書いてもすごいし、現代モノも飛びっきり面白い。そんな、宮部みゆきさんみたいな作家さんは、あまりいない。例えば、しゃばけシリーズの畠中恵さん。現代モノ、政治家事務所の事務員のお仕事を描いた「アコギなのかリッパなのか」は、読まなくちゃいけないってほどじゃない。

逆に、「サクリファイス」シリーズの近藤史恵さんの「猿若町捕物帳」シリーズ。ネットで調べると概して評判はよいので、私だけの印象かもしれないのだが、最新作の「土蛍」は、ちょっとスプラッターに過ぎるか。そこで描かれた狂気に、リアリティはあるのかと、違和感を感じるようでは、あまり楽しい読書とはなりにくい。

話は美食から脱線してしてしまった。窓の蝉も、一声だけ鳴いて、飛んで行ってしまった。猫型飛行船は、復帰最初の運航で墜落しかかって、はて、ちゃんと長く飛んでくれるのか、大磯のほうの上空は、暗雲立ち込めて、先行きが危ぶまれる、そんな船出となってしまった。