月別アーカイブ: 2013年7月

我フトクラテス敢えてマイノリティたらんとす

太った豚ではなく、痩せたソクラテスになれ、そう先生は仰せになられた。

太りやすい体質の私は、まあ、別に体格のことを言わんとされたわけでもないからと、特に僻むことも無く、自らが知識と思考力をもって世に貢献しようとするものは、私利私欲に走らず、社会に貢献せよと、そう読み替えて、はなむけの言葉として有難く頂戴することにした。

私利私欲が無いということと、付和雷同すること、全然関係無い、これは言うまでもない。が、かつて国政で影響力をもった方々が、大陸のほうに呼ばれ、国益を損なう発言を繰り返す様を聞くにつけ、政治家というのは同じ場所に留まっていると生き残りにくいんだろうなあと、思いをはせてしまう。君子豹変す、これは動きが激しい時代には不可欠だ。だけど、目の前にいる人たちが喜ぶであろうことを発言してしまう、あるいは、誰か力のある人の言うなりに生きそして発言してきた、その業というか、政治家としての生き残り戦略。悲しいことです。数年前まで見事に機能したロジックが、今、ひどく日本を傷つけている。

迎合、そういう表現を使わせてもらう。定見があって、それを目の前にいる人々に説得し、すり合わせ、うまく落とし所を見つける、それが理想形ではなかったか。ところが、である。こう言えば、喜んでくれるだろう、そういうプレゼンの秘訣は、確かに、ある。だけどそれは、国益に責任をもつ、真のリーダーが、外交の場面でやっていい仕業ではない。せいぜい、選挙のときだけ、有権者をその気にさせる必要があるとき。だけど、選挙のときの安請け合いを信じるほど、有権者はバカじゃない。真に信頼できるリーダーは、一貫して信念をふりかざすために、時に有権者の支持を失なって、議席を失うこともある。だけど、長い目で見れば、迎合しまくり、変節を繰り返す政治家が、長く尊敬を集めることなんて無い。有権者をなめてもらっては困る。

我、フトクラテス、野に生きる。それも嫌いではないので。

宮部みゆき斜め斬りを許さず

年間千冊読むための、見切り千両。隠居してから読めばいい本は、読み始めて一刻も早くそう判断して放り出し、斜め読みモードに移行する。これがコツ。捨てる決断力に価値宿る。悲しむべきは、いまどきのビジネス書は8割方そうなってしまうこと。それは、粗製乱造とまでは言わずとも、数打ちゃ当たると思っているらしい出版業界の事情を素直に反映したものだと手前は思っている。

ただ、ビジネス書の世界においても、今、物語性の価値が再発見されている。インテルではSFによってイノベーションを構想するという、そんなような本を今日読んだ。発見は、物語のあるところで起こる。となれば、より多くの皆様の想起する物語を事例として取り込むこと、結構ポイント高いんじゃない、という発想に至る。イノベーションは一日にしてならず、物語るべきネタに恵まれたイノベーションは、凡百の改良とは比較にならないほどの価値を社会にもたらす。

だから、技術的なイノベーションは、その利用シーンを物語として語るべき。物語として面白ければ、成功する可能性も高かろう。物語として退屈極まりない新製品が、市場を席巻するなんてことは、この時代には起こり得ないのではないか。

つまり、新製品はまず、利用されるシーンでの物語をもって判断すべきと。

でも、どうなんだろう、日本の語り部の皆様、小説家の先生方の、物語を紡ぐ力は、今、どうなっているのだろう。個人的には、決して斜めに読もうという気にもならない村上春樹氏をはじめ、国内なら宮部みゆき氏、国外ではダン・ブラウン氏、などなど。斜めに読めないy。斜めに読まない、というのではなくて、面白しく速読する必要を感じない。だから、読むのみやたらと時間がかかる。今回読んだ宮部みゆき「泣き童子」は、わずか四百頁ちょっとだから、せいぜい数時間かと思ったら、まるまる一日かかってしまった。慎重に読んだ結果である。

今回は特に「まぐる」の話が面白かった。マグルといえばハリー・ポッターのシリーズでは人間のこと。そして宮部さんの世界では、ある種の怪獣だ。その怪獣退治、怪獣攻撃隊MATが出てきて苦戦したあげく、郷秀樹が変身して「帰ってきたウルトラマン」が戦ってもいいような、そんな状況で、過去からの人間の英知が、怪獣と倒す。いや、ここでは妖怪と呼ぶべきか。帰ってきたウルトラマンというより、ゲゲゲの鬼太郎を引き合いに出すべきかもしれないが、寸法が、ウルトラマンのサイズ。

宮部みゆきさ妖怪退治の話といえば、博打眼、これも面白かった。突破口は、民間伝承であった。あんな小さな毒のない可愛い置物が、よってたかって悪意と呪いの塊を解毒する。理性に照らせば到底リアルとは呼べないような光景が、しかし圧倒的なリアリティをもって迫ってくるのは、心のどこかに共感する原始のミラーニューロンが誰にでも備わっているのか、そんなような感動がある。今回の、巫女ではないけど、巫女のような女性性の伝承。なにかこれも感動的だ。父性は敵を力によって征伐することを志向するのだが、母性は敵の感受性に訴えることで自滅へといざなう。ある意味、柔をもって剛を制す、その最高の実現形になっているのだ。

宮部みゆき作は、概して長い。長いけど、斜めに読む気が全然おきない。慎重に読んで行くこと、それが快楽になっていて、快楽は読んだ時間に比例する、かのようになっている。だったら、時間をかけて読むしかないじゃないか。

2005年のタイムカプセル

このブログはまだ全然記事が無いように見えるけど、実はこのURLにて、同じタイトル「猫型飛行船」にて、2005年1月から更新されていた。当時はバックエンドで有料のCocologサービスを使っていて、その後無料版のCocologに移行し、そしてこの7月に戻ってきた、ということになる。

一貫してMovableTypeベースのサービスというかASPのTypePad系を利用してきたのが、ここに来て突然WordPressに乗り換えたのは、現在多くの人がそう考えているだろうことと同じく、この秋にMovableType Open Sourceが終焉してしまうという状況に直面して、潮時と行動を起こした、ということである。

インターネット上には過去のページをアーカイブしてくれているWayback Machineというサービスがあって、そこで猫型飛行船(http://ship.asap.jp)の2005年1月当時の記事を見ることができる。ある種のタイムカプセルです。自分でアーカイブしておくのを怠っていて、そのくせ読めば懐かしいなんて、随分とだらしない奴、そう思われても仕方ない。ここでは、Wayback Engineに感謝の意を表し、その記事を一部(2005年1月30日の記事2件)ここに引用する。

グローカルでいこう

グローカル Glocal = think global, act local 世界規模の視野で考え、草の根レベルの活動の視点に生かす。

どぶ板政治家の先生は(think)local-(act)local。自国の正義を世界に押し付ける超大国は、local-globalのエゴイ スト組。本当はglobal-globalでありたいが、そんなのは一部エリートの世界だし、globalサイコーという米国的プロパガンダに染まった価 値観が背景にある。グローカルは和製造語なのだが、そこには、所詮グローバルなプレーヤーにはなれないけどね、という日本国民の諦め感が染みていて、それ で心の琴線に触れる流行語となったという気もする。失われた10年の停滞と高齢化で社会の活力が低下し、アジアの盟主の座を中国に奪われ、貧富差拡大、治 安悪化、汚職蔓延、かつての英国のような没落感に喘ぐわが国にとって、勇気の湧き出る掛け声が必要だ。いわば、モ娘のラブマシーンのような存在だ。

ここで突然ですが、作者にとって生業の場、ソフトウェア業界にこのグローカル構図をあてはめてみる。

ソフトはみんな、米国発世界標準の技術が支配的で、日の丸企業に国際競争力は無いとされてきた。日本語という障壁が外国勢から市場を守ってきたが、 中国やインドでのオフショア開発に市場を奪われ、ゼネコン型下請け階層末端の弱者から順に淘汰の時代を迎えたといわれる。でも、ソフト関係全体は依然成長 余地豊富な夢のある産業のはずで、単に取り上げられつつあるチーズに恋々としてるだけで、そういう付加価値の無い下請け作業は国際垂直分業体制にとっとと 投げてしまえ、というのが理性の声の発するところ。

では日本には何が残るのか。それがソフトサービスだと考える。インドの技術者と接点があるとわかるのだが、基本ソフトのセンスでは到底彼らと同じ土 俵では戦えない。現在は人海戦術が必要なビジネス系カスタムアプリケーションでも、どっと作るエネルギーの面で、中国人のハングリー精神にまったく勝てな い。だが、ソフトは手段で目的はサービスや機能の実現だ。現在の日本にある多様で多量の細かなサービスのニーズに、中国もインドも豊かになって数年後に直 面する。日本で洗練されてゆく木目細かなサービスは、日本人のもの作りやもてなしのDNAの素直な発露であり、いずれグローバルスタンダードの品質を持つ に至ると考えるのである。

グローカル構図に戻るが、多くのスタートアップ期のベンチャーがlocal-localの領域で糊口をしのぐ悪しき習慣があった。下請けは食えたか らだ。これからは違う。global-localの領域で、小粒でもピリリと辛い山椒のような個性が存在価値として求められる。local-localか ら肥大してlocal-globalの領域に至るのが魅力的な話には聞こえない。global-localの領域で輝くビジョナリーな数千社となるか、さ らにそのなかで数社、global-globalの領域へ踏み込む企業が出てくれば、それで十分元気の出るサクセスストーリーであり、日本のソフト産業の 安泰を意味すると考える。

バケツのようなサントス

アスクルさんのバーゲンで、前からすごく欲しかったbodum社の電動サイフォン「サントス」が¥5kだったので、衝動買いした。この価格ならミニ サントスと思ってたら、フルスケールのサントス、最少でも6杯分から。少なめの水で実験すると、しっかり誤動作して、一度上がった水が一度下がってまた上 がる。2度煮るから妙な味わい。あきらめて6杯分を作るが、これはさしずめバケツのよう。掃除も毎回大変。だが、確かに、ペーパーフィルターを使うコー ヒーメーカーとは顕著な風味の差を感じる。

さて、ブログの置き場所を、楽天→ライブドア→ココログ、と変えて来ました。楽天では購買履歴が付きまとうのを回避できず、ライブドアではちょうど トラブル頻発期と重なって心身ともに消耗し、結局、お金を払ってでも安定して高い機能を提供してくれることがわたくしには最優先とわかりました。過去ログ は放棄します。本日より、茅ヶ崎駅前海近くから情報発信するブログ、「猫型飛行船」を始めます。猫型は作者の商売の商号に関係し、飛行船は作者の体型とス ローな生き方に発想の源を置きます。以後、お見知り置き下さい。

2005年に予想したとおり、受託という名の下請けソフト開発の仕事は見事に根こそぎ中国やインドに流出し、壊滅したとまでは言わないが、業界はその姿を大きく変えた。ネットの向こうに価値が移行する、今風に言えばクラウド化はやはり顕著に進展し、ウェブサービスは百花繚乱となったが、WebServicesという技術は期待通りとはゆかなかった。そして、パソコン業界が右肩下がりという状況は予想さえしていない。なぜなら、そのきっかけとなったiPhoneがまだ影も形もなかったから。これはAppleとスティーブジョブスが起こした奇跡だったのだ、やっぱり。

2013年の今となっても、顔色は優れないながらも、この業界の端っこのほうにぶらさがっていられるというのは、感謝しなくてはならない。天に、ということももちろんだが、周囲の方々に、心より感謝したい心境になってくるのは、この2005年のタイムカプセルのおかげなのである。

美食小説という快楽

窓の網戸にとまった蝉。そのまま静かにしててくれよな。

酷暑の谷間、風が涼しい、過ごしやすい日となった。7月22日の土用丑の日にはまだ数日あるが、わが家の食卓には一足早い、あの香ばしい褐色に輝く季節の風物詩。食欲がとても刺激される。鰻の暴騰が始まった今年であれば、ありがたさもひとしお。この20年ぐらいは美食という言葉がフィットしなくなっていたが、今年からは贅沢品のお仲間に復帰。夏の貴重な栄養源、ウナギさまさま。

そんな今日は、学校ならば夏休みの初日。そしてここ、湘南は茅ヶ崎。海岸通り、そういう名前の、海から1kmも離れた東西に延びる道。茅ヶ崎駅南口から、サザン通りでちょっと西へ、そんなロケーション。

昼を過ぎ、気温が高くなってきて、そろそろこの蝉くんも、ミンミンと全力で鳴き始めるのだろうか。それは勘弁してくれ。網戸の端っこを指でパチンとはじいて、移動願わなくてはならん。

夏の美食。高田郁「残月」にもそれは出てくる。今ほど運輸網が発達していない江戸時代のこと、食材は上方と江戸では大きく異なり、必然的に食習慣も調理法も違ったものであって、それがこの「みをつくし料理帖」シリーズを織りなす糸となっている。そういう地域性が実際のところ、当時の料理に多様性を与え、豊かな食文化を継続的に蓄積し洗練する原動力となってきたことは間違いあるまい。

地産地消。わざわざ食のためだけに旅行する価値があるという、ミシュラン三つ星の基準。巴里の10を超える14の三つ星店を有する東京。江戸時代からそういう素地、多様性を嬉々として吸収・同化・改良するメンタリティがあって、今があると考える。料理に人生をかける作り手の志、そして、店を正当に評価し育てる顧客層、その量と質。食文化を高める車の両輪となってきたはずだ。

いやあ、美食小説は面白い。

ここで一つ興味があるのが、高田郁さんが現代モノで美食小説を書いたら、どうなるか。

時代小説を書いてもすごいし、現代モノも飛びっきり面白い。そんな、宮部みゆきさんみたいな作家さんは、あまりいない。例えば、しゃばけシリーズの畠中恵さん。現代モノ、政治家事務所の事務員のお仕事を描いた「アコギなのかリッパなのか」は、読まなくちゃいけないってほどじゃない。

逆に、「サクリファイス」シリーズの近藤史恵さんの「猿若町捕物帳」シリーズ。ネットで調べると概して評判はよいので、私だけの印象かもしれないのだが、最新作の「土蛍」は、ちょっとスプラッターに過ぎるか。そこで描かれた狂気に、リアリティはあるのかと、違和感を感じるようでは、あまり楽しい読書とはなりにくい。

話は美食から脱線してしてしまった。窓の蝉も、一声だけ鳴いて、飛んで行ってしまった。猫型飛行船は、復帰最初の運航で墜落しかかって、はて、ちゃんと長く飛んでくれるのか、大磯のほうの上空は、暗雲立ち込めて、先行きが危ぶまれる、そんな船出となってしまった。